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Flow

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Stewart BrandのHow Buildings learnを、英語の勉強を兼ねて読み始めた。

「建物は、空間に関する話しだけでなく、時間に関する話しでもある。」

この本では、建物が建てられた後にどのように変化するか、
時間の視点で読み解かれている。
商業の建物、住宅、施設など建物の種類によって、
変化の速度や様子が違うという事実は、当たり前のようであって驚きだった。
同じ30年であっても、変化の様子が全然違ったりする。

そういえば、どんな店だったかなと印象ない店がある。
目まぐるしくテナントが変わっていて、
前にその店が何だったか思い出せなかったりする。

また、多くの人には気づかれないかたちで少しずつ変化する住居もある。
(手すりのペイントが変わったとか、給湯器がついたとか、梅が咲いたとか)

今まで、建物は全体である街か、個別の建築でしか見てこなかったので、
建物の種類によって、違う変化のパターンがあるというのは盲点でした。

でも、日常でそういった異なる変化率に気づくことは難しいとも思った。
写真と興味深い着眼点と注意深い観察こそが、
気づかせてくれる事実という気もする。

木々の点滅

懐かしいcreator’s sabatoの映像がでてきました。
メガネを外した時に見える感じの映像です。

風日記とは

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風日記は、canadeのメンバーによる、日常の体験や想いや作品を綴ったブログです。
心機一転、ぼちぼち書いていきますので、ご愛好の程をお願い致します。

naoaki 山のパン屋さん

益子に行ってきました。starnetの近くに、pine de musha musha というパン屋さんがあるというので行ってみました。朝10時半ぐらいに、オナカをすかせて店に行くと、パンのいい香り。パンの販売と併設して小さな カフェも運営されていて、少し遅い朝食を頂きました。同人はホットドックを頼み、私はトーストを頼みました。加えて、店頭で売っているパンデショコラを一 つ。このパンがまた、すこぶるおいしく、パンの端からはみ出したところに、ちょこっと粒々とベルギーチョコがはみ出しており、その食感と甘さのバランスが 絶妙でした。おいしいできたてのパンのホットドックも当然おいしくて、こんな朝ご飯がいつもだとなぁとしんみりします。 民家の少ない中、ポツンとあるパン屋さんなのでよく商売をしているなぁと思いましたが、私たちのようにカフェに訪れる客、パンを買いにくる客は途絶えてお らず人気のご様子。夫婦二人で切り盛りをしているのですが、その二人に適正な大きさで、適量のお客をもてなし日々が丁寧に積み重なっているような印象を受 け、うまく生活をすれば、忙しく過ぎず、充実した時間が過ごせるお手本のような気がしました。 都市生活が前提だと、なかなかこの適量を自分自身の単位として捉えることが難しい。コンビニであれば、商圏の住民のニーズに答えることが適量だけれど、こ の近隣の人数と、このパン屋訪れる人数は、桁違いに違うものなのでしょうか。そんなに変わらないのかもしれないと思うと、コンビニのパンと、小さな個人の パン屋を比べてはダメだけれど、やっぱりおいしいパンが食べたい訳です。単純においしいパンをつくるヒトが近くにいるかどうかの違いなのだけなのかもしれ ません。毎朝おいしいパンを食べて、ゆっくり日が沈むのを感じられる生活が、とても贅沢に感じられるのですが、皆さんはいかがでしょうか。 旦那さんがコーヒーを焙煎して入れてくれるのですが、豆は京都のオオヤコーヒーを仕入れていますと行っていました、また、コーヒーの他のメニュー見ると、 ティモールとあったので、これはフェアトレードなのかなと思いました。こういったお店は、日本全国津々浦々に、あるセンスの情報網で繋がっていて、山間で あるとか、人里離れているとかを、飛び越えてしまう、日本サイズのコミュニティの強さを感じる瞬間でもありました。情報が伝わりやすく、繋がりやすくなっ た恩恵を受けているのかもなーと。何よりも地元のヒトに愛されてないと成り立たないものであることは前提ですが、+αの部分で、そう思った次第です。 いやぁ、おいしかった。また、行きますが当分先なのが残念です。


tomohiro「空街でのはなし〜銭湯〜」

むかし自分が書いたものを読んでみる。なんでこんなん書いたんだろう。とか。よく書いたもんだとか。 いろいろあるけれど、昔書いてた日記?メモ?の中からすごいのを発見した。 「なぜ月は太陽と同じ大きさに見える位置にあるのか?」 そ、そういえば!そうだ!っていう。 ちょっと、これミステリーだね。 おそらくなんかの本を読んだんだろうけど、全然思い出せない。 思い出せないだけにさらにミステリー。 理科室でラベンダーの匂いでも嗅ぐしかないね。

naoaki 「補助線が月」

「稲本さん、“物事”と言うでしょう。“物”だけじゃ駄目で、そこに“事”が付いて、それでクラフトや家具や家が本当の価値を持ってくるんでしょう。オー クヴィレッジも、人や地球と繋がる事で、即ち“事”を大切にし続けて欲しいね」 オークヴィレッジのニュースメールを見ていたら、筑紫哲也さんと、オークヴィレッジ代表の稲本さんの対話の記事が掲載されていた。冒頭の言葉は、筑紫→稲 本さんの言葉で、稲本さんが座標軸として大切にしている言葉とのこと。 モノづくりの会社では、モノをつくる前に人をつくるという考え方がある。これは、一面モノをつくることが、人づくりと密接であることをあらわしている。ど んなモノも、そのモノの周りに様々な物語を作り出す。【おじいさんののっぽの古時計】ではないが、誰かが使っていたモノには、「モノ」と「ヒト」をかけ算 した価値が残る。また、誰かから貰ったということも価値になる。【プレゼント】は、「モノ」に「ヒト」のつながりが刻印される。【皇室御用達】ではない が、「どこで現在使われている」のかも、モノの価値に繋がっている。【業務用】の雰囲気が好きな感性なども、この「使われ方」が価値に繋がっているところ があると思う。そう考えると、販売の仕方も多いにモノの価値に関わってくる。【アスクル】などは、明日届く(一部今日くるだったりもする)という「タイム リーさ」がモノの価値のかけ算になっている。ある【伝統工業】の商品が、失われつつある「伝統産業を保全する」意味合いがあるのでは、それは文化への投資 ともいえる。このように、モノの周囲には様々な価値がうずまいている。 冒頭の文章に戻ると、ヒトや地球と繋がる「事」は【エコ商品】Earth Literacy’s value といえるが、これはモノづくり文化の中で、昨今一つの時代のパラダイムになっていると思う。環境に優しい商品を選択することが”あたり前”に なったのは、大きな価値潮流の一つの変化ではないだろうか。この潮流の根っこは、単純にこのままだと地球が危ないという危機意識からではないと思う。イン ターネットで世界中の情報が繋りつつあるグローバルビレッッジの感覚がこの価値を下支えしているのだと思う。つながりを気づかせることとアクションに起こ すことのギャップ埋めない限りは、言いっぱなしであるのだけれど、多くのものは、そのフレーバーの商品で満足してしまうものでもある。ここが、多くのヒト の悩みになっており、このギャップこそが気になる。このギャップは、補助線が月まで伸びている気分にさせる。でも、価値のつながりをクリアーにすること で、Earth Literacy の知恵が入った商品をつくることができる時代になったのも確かだと思っている。

naoaki「空街 - チェックイン -」

「昨年にこのホテルをご利用になられていますよね。」 「いや、今回はじめて来ました。」 「○○様ですよね、確かに記録が残っています。」 「覚えがないです。同姓同名の方でしょうか。」 「KK大学の○○さんとして宿泊されています。」 「はい、確かにKK大学出身ですが。私が忘れているだけでしょうか。」 「、、、お気になさらないでください。」 深夜2時のチェックインの時の話し。 どちらかといえば、記憶が弱い自分の方が分が悪い。 おそらく、もう1人の自分は昨年このホテルに泊まっていて、 今日の僕と同じように、1人の夜を過ごしている。

tomohiro「空街でのはなし〜魔法〜」

ビリビリビリ。玄関でマジックテープ式の上着を脱ぐ。 「うるさいわね。」 彼女は寝ていたらしく目をこすっている。 「なんとかならのいのかしらね。その音。」 「この音がいいんだろ?」 「あら、どうして?」 「君が起きた。」 「、、、まるで魔法ね。」 「そうさ。」

tomohiro「樂」

この前、京都の樂美術館に行った。千利休の美の結晶 長次郎の樂焼き屋さん。へうげものにも出てきてるね。そこで聞いた話。樂家では代々「土」を孫のために貯蔵しているそうな。つまり今の15代目吉衛門が使っている土は12代目が掘り起こしたものらしい。そうやって技術とか精神とかだけじゃなく素材そのものを受け継ぐっていうのは非常にぐっとくる。特に「土」っていうのがいい。そこに魂が宿るんだろう。何十年も寝かされた土は固くなり岩みたいな状態で、使うときはそれを砕いていくんだって。アイスピックで氷を砕くクンパルシータのおばあちゃんみたいにその姿はさぞや美しいんだろう。雲母岩を砕いて物語を拾い上げるアゾットの住人達のように。それともう一つ。利休が目指した侘び茶の真髄のひとつ「花は野の花のように」。花を生けるときは野に咲いているように生ける、作為を見せずあくまで自然にということ。で、樂焼を見て、そういうことか、と思った。初代長次郎の、はにゃっとした(へうげもの的に言うとね)かたち、存在感。それは気づけばそこにあった的な、あまりに自然すぎて、自然そのものが奇跡だったってことに気づかされる。そこに達したモノは、形状ではなく状態なんだろうと思った。うまくいえないけれど。なんというか、名詞ではなくて動詞なんだよね。古田織部の手前は趣があり茶会の後もその余韻にひたってしまう。それに対し利休の手前は自然すぎて何も覚えていない。らしい。

naoaki つくらないをつくる

友人の結婚式で思い出したこと。 「自分たちの時代のモノづくりは、「つくらないをつくる」のが大事なのでは。」課題にあきて、大学のラウンジでカップラーメンとかを食べている時に、そん な話しをしていました。 作りすぎてしまう世の中だと、実は作らないですませるということが、生み出すということに同義で、何も考えずに、どんどこ作り出してしまうことは格好の悪 いことだと当時の僕らは感じていたように思います。 彼は、フリーマーケットで古着やスニーカーを売るのが上手で、売るたびに、かなりの額を儲けていました。価値あるとされるものを見つける目利きというより は、 みんなの価値の相場感覚が分かっている感じで、そういう感覚はクールだなと思います。彼は、今は中国でどんどこ建物をたてているし、ボクは多くの国でたく さんのものを売る会社で働いている。僕らは個人であることと、そしてたぶん大きな世界が繋がって呼吸しているみたいな文明活動のことを話しをするかもしれ ない。気がつけば、つくらないどころか、つくりまくるど真ん中にいる。今の立場だと、つくらないをつくるというと、あまりにもナンセンスになってしまう し、真面目につくらないをつくることは、リユースになる。そして、リユースが果たして、ゼロエネルギーで実現できるかというと、そうもいかない。 そうなると、いいものをつくる。その場で、その場のためにつくる。 それしか残らない気がしてくる。 そう、ロケットをつくらないと、僕らはあの青い地球の写真を拝むことはできなかったのです。だから、今、この場と、つくることがどう繋がれるかが大事なの だと今は思うのです。