tomohiro「空街でのはなし〜銭湯〜」
むかし自分が書いたものを読んでみる。なんでこんなん書いたんだろう。とか。よく書いたもんだとか。 いろいろあるけれど、昔書いてた日記?メモ?の中からすごいのを発見した。 「なぜ月は太陽と同じ大きさに見える位置にあるのか?」 そ、そういえば!そうだ!っていう。 ちょっと、これミステリーだね。 おそらくなんかの本を読んだんだろうけど、全然思い出せない。 思い出せないだけにさらにミステリー。 理科室でラベンダーの匂いでも嗅ぐしかないね。
むかし自分が書いたものを読んでみる。なんでこんなん書いたんだろう。とか。よく書いたもんだとか。 いろいろあるけれど、昔書いてた日記?メモ?の中からすごいのを発見した。 「なぜ月は太陽と同じ大きさに見える位置にあるのか?」 そ、そういえば!そうだ!っていう。 ちょっと、これミステリーだね。 おそらくなんかの本を読んだんだろうけど、全然思い出せない。 思い出せないだけにさらにミステリー。 理科室でラベンダーの匂いでも嗅ぐしかないね。
この前、京都の樂美術館に行った。千利休の美の結晶 長次郎の樂焼き屋さん。へうげものにも出てきてるね。そこで聞いた話。樂家では代々「土」を孫のために貯蔵しているそうな。つまり今の15代目吉衛門が使っている土は12代目が掘り起こしたものらしい。そうやって技術とか精神とかだけじゃなく素材そのものを受け継ぐっていうのは非常にぐっとくる。特に「土」っていうのがいい。そこに魂が宿るんだろう。何十年も寝かされた土は固くなり岩みたいな状態で、使うときはそれを砕いていくんだって。アイスピックで氷を砕くクンパルシータのおばあちゃんみたいにその姿はさぞや美しいんだろう。雲母岩を砕いて物語を拾い上げるアゾットの住人達のように。それともう一つ。利休が目指した侘び茶の真髄のひとつ「花は野の花のように」。花を生けるときは野に咲いているように生ける、作為を見せずあくまで自然にということ。で、樂焼を見て、そういうことか、と思った。初代長次郎の、はにゃっとした(へうげもの的に言うとね)かたち、存在感。それは気づけばそこにあった的な、あまりに自然すぎて、自然そのものが奇跡だったってことに気づかされる。そこに達したモノは、形状ではなく状態なんだろうと思った。うまくいえないけれど。なんというか、名詞ではなくて動詞なんだよね。古田織部の手前は趣があり茶会の後もその余韻にひたってしまう。それに対し利休の手前は自然すぎて何も覚えていない。らしい。
左脳が言語中枢を持ち言語処理を行い、右脳が風の音や川のせせらぎなど非言語の処理を行っている。というのが世界の定説だが、 日本人または日本語が母国語の人だけは違っていて、非言語の部分も左脳で行っている。つまり非言語も言語の一部として処理している。というのが角田学説である。 「実に面白い。」とアゴでもひと撫でしたくなってしまった。 日本語には擬音つまりオノマトペが非常に多い。 コオロギが鳴く音は「リンリン」だったり、風は「ごうごう」だったり「ヒューヒュー」だったり。 マンガの世界なんて擬音だらけだ。ひでぶーだ。 千利休は湯の沸くを5つに分類し名前を付けたらしい。ただ単に湯が沸騰している音をそんなに細かく分類して、さらに名前まで付ける。音が文字として頭の中に浮かんでいるからこそできることなんだろう。 また降り積もる雪を「深々」という。これは音のことではないが、絶え間なく降り続く雪を見ているとなんとなく「しんしん」という音が聞こえてきてしまう。実際にはない音まで聞いてしまうのだ。それはきっと余韻を聞いているんじゃないだろうか。 日本人はそういう、積極的に余韻を聞くということで想像の余白を広げていく。 そして古池には蛙が飛び込むのである。 余韻を聞く。余白を紡ぐ。じつにおもしろひね。