この前、京都の樂美術館に行った。千利休の美の結晶 長次郎の樂焼き屋さん。へうげものにも出てきてるね。そこで聞いた話。樂家では代々「土」を孫のために貯蔵しているそうな。つまり今の15代目吉衛門が使っている土は12代目が掘り起こしたものらしい。そうやって技術とか精神とかだけじゃなく素材そのものを受け継ぐっていうのは非常にぐっとくる。特に「土」っていうのがいい。そこに魂が宿るんだろう。何十年も寝かされた土は固くなり岩みたいな状態で、使うときはそれを砕いていくんだって。アイスピックで氷を砕くクンパルシータのおばあちゃんみたいにその姿はさぞや美しいんだろう。雲母岩を砕いて物語を拾い上げるアゾットの住人達のように。それともう一つ。利休が目指した侘び茶の真髄のひとつ「花は野の花のように」。花を生けるときは野に咲いているように生ける、作為を見せずあくまで自然にということ。で、樂焼を見て、そういうことか、と思った。初代長次郎の、はにゃっとした(へうげもの的に言うとね)かたち、存在感。それは気づけばそこにあった的な、あまりに自然すぎて、自然そのものが奇跡だったってことに気づかされる。そこに達したモノは、形状ではなく状態なんだろうと思った。うまくいえないけれど。なんというか、名詞ではなくて動詞なんだよね。古田織部の手前は趣があり茶会の後もその余韻にひたってしまう。それに対し利休の手前は自然すぎて何も覚えていない。らしい。